このコーナーは、多くの会員が月信を楽しくお読みいただければと考え設けさせていただきました。
 ジャンルには限定なく、会員自身の興味深いご経験や趣味、時事雑感や他クラブ会員への呼びかけ等を掲載していきたいと思っております。
 毎月ご愛読下さいます様お願いいたします。
名古屋RC  加藤 千麿 (竃シ古屋銀行 取締役頭取)

 5月初旬に高校時代の仲間と旧満州(現地では偽満州と表現されている)と大連・旅順へ出かけた。
 私にとって旧満州は初めて訪れる地である。旧満鉄列車を利用して約1,000キロメートルを移動した。ハルピン、長春、瀋陽は、かっての日本国が「五族協和」、「王道楽土」を唱えてつくった満州国の中枢地である。

 「ハルピン」はロシアに近く黒龍江省の省都であり、帝政ロシアの統治の名残りを留め、ロシア風建物が見られる。聖ソフィア教堂、中央大街の建物など。1932年日本軍がハルピンを占拠して、1945年まで支配した間、日本の建物として松浦洋行(百貨店)、桃山小学校(現・兆麟小学校)など残っている。桃山小学校は作家、なかにし礼の小説「赤い月」に取り上げられており、「流入する数万の避難民のために学校が収容所にあてられた。牡丹江から避難した民子も、ここに収容された。ドームのついたロシア風の美しい建物でついこの間まで日本人学校だった。」 
東北烈士記念館(旧関東軍憲兵司令部)は1948年に抗日戦を把えたもの、毛沢東の「打敗日本侵略者、解放全国人民」と銘がある。

 「長春」は旧満州国の都、日本では「新京」である。愛親覚羅溥儀の皇帝居宅、映画「ラストエンペラー」で皇帝の弟、溥傑が日本人の妻・浩(嵯峨侯爵の息女)を伴って始めて満州の地、皇帝居宅を訪れるシーン、玄関奥のホールでのダンスの場面が思い出される。満州国務院、日本の国会議事堂に似ている。入口の傍らに秩父宮殿下のお手植えの松と、「偽満州国務院旧跡」の碑が建ててある。
満州協和会、関東軍司令部などの旧満州国時代の遺構が現在も各機関として使用されている。
 
 「瀋陽」は満州事変勃発地で、柳条湖事件の場所も中心地近くである。「9.18事変博物館」がその場所に建立され、見学が許される。日本人にとってこれらのさまざまなシーンは、いささかつらい。  故宮博物院、清朝の元祖ヌルハチ及びホンタインの王宮である。広大な広さ6万uには20余りの庭園と90余の建物がある。
 ハルピン、長春、瀋陽の駅は旧満鉄の建物であり、その前には満鉄経営の大和ホテルが威容を示している。
 最終行程で大連へ向った。13:00時発の特急列車に乗る。400km、4時間である。のどかな草木の田園風景を見ながら車中閑談を交わす。
 大連は私の生誕地、10歳まで過ごした懐かしい所である。18年前に北京でのビジネスの途中に訪れたことがあり、2度目となる。今回の目的の一つは、私が幼年期に住んでいた「光風台」という丘の上の住宅地へ行くことであった。大連の中心地、中山広場から南方向、解放路を南へ、桃源街(旧・桃源台)に着く。かっては路面電車が走っていた路である。解放路の道から小高い山へ向って南側の坂道を登る。この一画(約8万u)の地域が光風台と呼ばれた日本人の屋敷があった地域である。
 500メートルほど丘を登り進むと、この一画が赤煉瓦の塀で囲まれ、進入路は封鎖されている。前回、18年前には入口に石の門柱があって守衛と遮断機の腕木で通行を遮っていた。守衛に事情を話しても軍事関係施設であり許可なしではこの地域へ入れないと拒まれた。
 今回は、事前に東京三菱銀行大連支店にお願いし、大連対外貿易経済合作局の骨折りで許可を得てきた。
 光風台の入口では外貿合作局の主任に迎えていただいた。この居住区入口には「中国人民解放軍大連軍区高級療養所」と看板がかかげられている。
 中へ入ると、まるで公園の中に入って行くようだ。日本人のかっての屋敷がそれぞれ保存され利用されている。一軒ごとに建物を囲んでいた塀は取り払われたり、小さくなったりして、30軒ほどの屋敷がまるで快適な別荘風に点在している。道路も整備され、一段と美しい街並みとなっていた。「我が家は・・・」と気がせく。このあたりかと行くと、家がない。隣家(食堂)の庭となっていた。主任の話ではここには平屋の家があったと言っていた。まさに我が家のことだ。美しい街づくりに我が家が貢献していたことになる。

 翌日、大連湾、黄海の海岸線を通り、星海広場、付家荘北大橋、老虎灘と廻り、解放路、光風台近くを再び通って周水子空港へ着いた。

 思い出を深めたよい旅であった。


光風台の家の跡
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