【講演】東北で見た事、感じた事、学んだ事(新城ロータリークラブ)


20120810_sinnriro_1.JPGフォトグラファー 野田 豊様

想定外の津波とは言えない。
岩手県大槌町の国道上に国交省が立てた津波浸水想定標識の真下まで浸水していた。山田町の古里会館にある「ここより下に家を造るな」の石碑のすぐした古い神社、寺の石垣の直ぐ下まで浸水していたが真新しい神社は流されていた。古文書や石碑など歴史に学ぶことを忘れてはいけない。
笑顔プロジェクトで訪問した北上中学校は標高36m あり被害は地震による物だけであったが周辺の施設集落は津波で壊滅的被害を受けた。特に児童の犠牲者は今回の震災で一番多い地区である。指定避難所の北上中学校の体育館に避難した300 人は食べ物どころか水も無く3 日間飲まず喰わずであった。3 日目に近くの温泉からやっと届いたおにぎり100 個を大人2 分の1、中学生は3 分の1 づつ分け合って食べた。
指定避難所に非常食や飲料水が備蓄されていなかった。
●石巻市で多くの犠牲者を出した北上支所と大川小学校の例
消防の誘導で避難所に避難した人の95%が犠牲になった北上支所。北上川河口にある河北総合支所は石巻市が指定した避難所で2 階建て。上流に大川小学校が見える。周辺にはおよそ80 軒の集落が有り津波警報が出た後、消防の呼びかけで避難した57 人中54 人が死亡した。河口から真っ黒な壁となって押し寄せた津波は、住民らが避難していた支所二階海側の部屋めがけてぶつかってきたという。
道路を挟んだ向かい側の吉浜小学校は高さ約十メートルの校舎三階の天井まで浸水し、校舎の時計は津波が来た2 時47 分を指したまま止まっている。
放課後で、児童49 人のうち卒業式の準備で残っていた児童6 人と教職員は校舎屋上に逃げて助かったが、目の前を流れて行く友達や父兄を目撃している。雪の降る寒い夜を一晩屋上で過ごした。屋上倉庫に有った物を燃やして暖をとった跡が今も残る。
支所は既に取り壊されている。

行政の想定が甘かった→→→避難所の設定が間違っていた。

誘導した若い消防隊員は山に駆け上がり助かったが未だに悔やんでいる。と聞いた。
石巻市釜谷地区の北上川河口から約4 ㌔の川沿いに位置する大川小学校は、3 月11 日の東日本大震災で全校児童108 人の7 割に当たる74 人が死亡、行方不明となった。宮城県も石巻市も昭和三陸大津波レベルなら大川小学校には津波が来ないことを公言し、それ以上の大津波への対応は全く考慮していなかったと言われていた。震災当時の津波浸水予想図では大川小は浸水しないことになっており、屋上も無いモダンな2 階建ての校舎が避難所に指定されていた。しかし校庭は標高も低く、当初の気象庁の津波予想は3m〜5m で有ったために学校に避難して来た父兄と先生はもっと高い所に避難することを決めたが裏山に逃げることは「お年寄りは登れない」等の理由でPTA 役員から反対された。20 分間くらいもめた末、標高6m 程度の橋のたもとの広場に向かう事になったが移動中に10m の津波が襲った。周辺の150 軒余りの集落は全て流されてしまっている。
「ここまで来るとは誰も思っていなかった」との地区のほとんどの住民の話でも分かる様に市民にも津波の危機意識は無かったと思われ対応が甘くなった。津波を見ようと堤防に行ってさらわれたり、自宅にとどまり犠牲になった人も多かったという。
市民の認識も甘かった。これまで来たことが無い・・・・津波の怖さを忘れていた。責任は行政の甘い予測だけでなく広域合併で広くなり過ぎた周辺地域の情報の把握や対応が出来ていなかったこともあると指摘する意見もある。
●明暗
校庭に出た生徒たちが教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした釜石の中学生との違い子供たちは普段の防災訓練で使っている高台に集まろうとしたが、だれかが「まだ危ない」と言いだし、さらに高い場所にある老人施設まで移動、途中小学校や保育園の子供にも大声で呼びかけ、手を引きながら1kmも走って逃げた。5 分後小中学校は津波にのまれたが全校生徒無事逃げることが出来た。偶然出来た訳では無く週1 時間程度の津波教育と年3 回訓練して来た成果だった。「津波でんでんこ」「釜石の奇跡」と言われている。岩手県は4 年ほど前から東北の大地震が近いと言われていてその備えをして来た様だ。最悪を想定し日頃実際的な訓練をしていないと役に立たない。普段していないことは緊急時にも出来ない。甘い想定と楽観的な予想が被害を大きくする。津波によって、人は60cm でながれ、木造家屋は2m の津波で流される。頑丈な壁の家は地震には強いが津波には弱い。ピロティーの様な波が抜ける構造が良い。
●おまけ1
避難所等で感じたこと
避難所の管理運営、被災者の支援、ボランティアセンターの設置まで自治体により取り組みの差が出ていた。
岩手県と比べると宮城県は少し支援活動も行き届いていない気がした。(全部を見た訳では無いが)仮設住宅や復興のスピードに同じ県内でも差がある。自主的に運営された避難所は雰囲気が明るい。
行政に頼り切りの避難所は難民収容所のようだった。あまり多数の人を体育館の様な所、一カ所に収容するのは良くない。
支援は被災地が求めていることを求めに応じて行うのが望ましい。やる事に意義が有ると思っていると迷惑がられることもある。
支援の仕方もお金や物資から今は心の支援、復興支援になっている。被災者に喜んでもらえるかニーズに合わせ良くプランニングする観光も支援になる。
●おまけ2
地震直後の宮城県庁に入った防災関係者から
「職員は5 時になるとぞろぞろ帰り始め危機感などまるで無く、対策会議は1 日4 回開かなくてはならないのに2 回しか無く裏対策会議をやっていたようだ。宮城県はあまりにもひどい」
東北大学教授から聞いた話
「宮城県知事は復興計画を三菱総研に丸投げしている」「仙台にいて現場を見ようとしない」
石巻にて地元コンサルの話
「地元の意見を取り上げる気が無い」
中央防災会議委員の話
「重大な危機のとき首調の差がはっきり出ます。選び方を慎重にしないと困るのは市民ですから。また、これまで自助5、公助5 と言ってきましたが今後は自助7、公助3 のつもりでいた方が良い。行政は通常業務と主にインフラの復旧などで手一杯になる。個人への救援は殆どあてに出来ない。」
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