東日本大震災への昨年度実施の地区支援プロジェクト報告


その時信号待ちをしていて、一瞬目眩を感じた。停車した方が良い……と思った。
信号が変わり、交差点の向こう側に渡って、車を路肩に寄せ、停車させた。
目眩は止まらなかった。ゆ~ら ゆ~らと強風に煽られたかのように車は、揺れ続けた。
「風か……?」

この時起こっていた事は、日本がかつて経験したことのない大災害だった。
東北の太平洋沖プレートを震源とする地震は、最終的にM9.0の巨大規模に達した。
地震による建物の損傷・火災に津波が追い打ちをかけた。
被害の様相は日を追って拡大し、深刻化していった。
例によって、マスメディアの過激な報道が、危機感を実態以上に煽りたてた。

「ヘリを飛ばしませんか?」
江南RCの杦本会員から切迫した声で電話がかかってきた。
彼がかつてヘリコプターの設計や製造の仕事に携わっていたことをこの時、初めて知った。
「民間機の飛行許可は航空局(国交省)がなかなかOKしません。」
粘り強く交渉を続け、震災発生後数日が経過して、航空局がやっと許可を出した。
この「自家用ヘリコプター協議会」へ出された許可が、この時点で民間に対して認められた唯一の飛行許可となった。
(緊急用の自衛隊機が300機以上飛び交う東北の空域に、民間パイロットの操縦する軽量ヘリが乗り込む難しさは、航空管制一つとっても容易に想像出来た。)
現地へ飛んでみて後から振り返れば、国交省の許可は英断であったという気がする。

軽量ヘリには、しかしながら、自衛隊の大型ヘリとは違った役割が現に存在した。
但し、飛行許可が下りたと言っても勝手に飛び回る訳にはいかない。
何処かの指揮下に入る必要があった。
それは何処なのか? 自衛隊か? それとも他に指揮を執る組織が存在するのか?
市ヶ谷の自衛隊本部からも「源流の会」会員間のブログからも、NPOからも、様々な情報が飛び込んできた。現地からは悲鳴に近い支援要請の声が届く。

何が最も確かな情報で、何処にコンタクトするのが最も有効な支援活動になるのか、早急に判断する必要に迫られていた。今こそロータリーがその存在意義を問われている!

災害発生後のこの早い段階で、善意だけでボランティアが駆け付けても、却って混乱した現地の指揮命令系統にとって足手纏いになる。
そのことは、かつて阪神淡路大震災に際し、医師として現地で救援活動に従事された田中毅PDG(尼崎西RC)の指摘にもある。ボランティアの出番は、もう少し後にやってくる。

最初に「ヘリを飛ばす」ことを提案してきた江南RCの杦本会員は、その後も活発に動き続けていた。矢継ぎ早に連絡が飛び込んでくる。
彼の情熱と思いは確実に伝わってくるが、情報の整理と取捨選択が必要だった。
重なり合う情報の中から「市民キャビネット」の災害支援部会に辿り着いた。
阪神淡路震災後に組織化されたこのNPOが、民間支援活動の指揮権を握っていた。
震災直後から活動を開始し、既に宮城・岩手をはじめ、被災地にいくつかの基地を設けている。国交省の許可も得て、民間ヘリ運用の指令にも当たっていた。

接点は出来た。後は資金だ。

善意で粉ミルクを送るのとはわけが違う。個人の手には負えない。
単独のクラブにも荷が重すぎる。第一この緊急の際に理事会審議にかける時間もない。
ヘリを一時間チャーターする費用は概算で80,000円~90,000円(機体・燃料費)かかる。
意を決してガバナー事務所を訪ね、水野地区幹事に『ヘリによる被災地支援』を提案した。
(この時点でガバナー会はすでに支援活動に取り組もうとしていた。)
水野地区幹事から提案を聞いた田嶋ガバナーの決断は早かった。
「やりましょう。」想定を超える1,000万円という多額の資金が提供されることになった。
地区資金に余裕が有った訳ではない。幸運なことに、この時地区には予定外の資金900万円を超える地区大会剰余金が預託されていた。
(簡素な大会運営に努め、結果として剰余金を地区に還流された地区大会のホスト、あまRCにも感謝しなければならない。)

こうして1,000万円の支援金が、ガバナー事務所を通じて『市民キャビネット』の銀行口座に振り込まれた。資金提供の条件として以下の取り決めをキャビネット代表と交わした。
1. 資金使途を明らかにし、報告できるようにすること。(透明性の担保。)
2. 活動のレポート作成のため、資金提供者に現地入りの機会をつくること。
3. ロータリークラブの広報への協力。(ロゴマークと第2760地区ステッカーの使用。)

当初、現地入りをガバナーにお願いしたいと考えていたが、ご多忙のために予定を変更した。ガバナーには、補給のため岐阜県の基地に戻ったヘリの確認に出向いていただいた。
このヘリポートで、ロータリーのロゴマークを付けた機体とガバナーとの写真を撮影した。

 

 

 

 


現地へはその1週間後、震災後ほぼ1カ月が経過して幾分落ち着きを取り戻した頃に、水野地区幹事と髙須が飛んだ。日帰りでの視察で東北を往復する強行軍となった。
東京まで朝一番の新幹線で行き、高崎線に乗り継いで埼玉・北本の川島ヘリポートへ。そこからは交通手段が無く、ヘリを使って2時間強のフライトで仙台郊外へ降り立つ計画。
この飛行には埼玉で初めて顔を合わせた『市民キャビネット』災害支援部会・松尾部会長が同乗し、様々な現地事情を聴いた。被災地の状況はめまぐるしく変化している。


支援物資一つを取っても、日々ニーズが変わる。昨日必要とされた物が今日は過剰となる。現地に司令塔が有り、リアルタイムに情報発信しない限り、到底有効な活動は望めない。時間に制約がある我々のために、ヘリは仙台に付く前に海岸沿いの被災地の上を飛んだ。 震災後1カ月が経過して予想外に片付けが進んでいる、というのが第一印象だった。


仙台港に近い川の入江に船腹を上に向けた小型船の姿は有ったが、幹線道路の瓦礫はきれいに取り除かれ、車の通行に支障はなさそうだった。
海に近い海岸線には確かに建物の姿が殆ど見られない。水に浸かったらしい車の姿もあちこちに見える。だが52年前、名古屋南部に居て伊勢湾台風に遭遇し、軒下まで浸水した時の光景と比べて、今目にしている東北の被災状況が格段に酷いとは思えなかった。

仙台郊外の芋沢ヘリポートから市内へは車で向かった。
途中物資の配送基地の一つとなっている広場へ立ち寄り、救援物資を積み込んだトラックを確認する。『国際ロータリー2760地区(愛知)』と書かれたステッカーが貼られていた。取り決めは遵守されている。


このトラックの購入は、道路が通行出来るようになった時点で、ヘリコプターから車へ、輸送手段の主力が交代しつつあった現地事情に合わせて購入を決めたものである。

仙台市内へ入る。仙台駅付近の街の様子は意外と落ち着いていた。
少なくとも(被災地以外の)市内を歩く人の姿には、我々の街と変わらない日常が在った。
到着後間もなく、青葉区の仙台市役所近くの緊急支援対策本部で会合が持たれた。
この地区のNPOやボランティア、それに国交省の役人2名も加わって、新しい災害支援組織作りの準備会合を行っていることが理解できた。(その延長線上に『被災地NPO支援全国プロジェクト設立総会』4/24東京・が予定されている。)

会議終了後、松尾氏らは岩手へ飛び、我々2名は市内の救援物資仕訳センターを見学して芋沢ヘリポートへ戻り、行きと逆のコースを辿って埼玉・川島ヘリポート、高崎線で東京、そして新幹線で名古屋へと戻った。20時を回っていた。

今回の経験は、災害時の資金支援の在り方、ボランティア活動の在り方など、多くのことを学び、どう取り組むべきかを考える契機となった。
災害の発生に際して(特に災害の規模が大きければ大きいほど)、何処からどのような方法で情報を得るか、それが決定的に重要になる。
メディア、取り分けテレビの流す情報は、センセーショナルなものになりがちな傾向にある。直接視覚に飛び込んでくる映像は、それが突出した事例だということをつい忘れさせる。全体の中の一部の情報が恰も全てで有るかのような錯覚を産む。これは注意を要する。少なくともテレビの映像が伝える情報だけで現地状況を判断することは避けたい。

災害発生時の救援と被災状況の把握、緊急支援を担うのは、国であり地方自治体である。
だが今回はその自治体そのものが被災者であり、初動段階では通信も途絶えていた。
このような状況の中で必要とされたのは、災害支援の豊富な経験を持ち、且つ行政との連携が取れる民間組織だった。いわばボランティアでありながらセミプロである集団の協力が無ければ、10万人の自衛隊員だけでは対応しきれない、緻密な被災者への支援が抜け落ちてしまう。民間のセミプロ集団が組織を立ち上げ、未経験ボランティアの司令塔となる必要がある。今回2760地区が接点を持った『市民キャビネット』は、阪神淡路大震災の経験を踏まえ、全国ネットを設立する動きを見せていた。

東北の現地で見た彼らの動きは多忙を極めていた。
だが同時に感じた疑問は、彼らの生活が何によって支えられているのかということだった。
仕事は? 収入は? 活動の費用は?
彼らは支援活動を途中で打ち切る訳にはいかない。司令塔の無い組織は動かない。
ボランティアのように自ら期間を定めて出かけている訳ではない。少なくとも受け皿となる行政の組織が、全てをカバーできる時点まで留まる必要がある。その間の彼らの本業である仕事はどういう状態に在るのか?
『市民キャビネット』の中には専従者(現在離職しているもの)も在籍していた。復旧が軌道に乗り、NPOやボランティア等市民組織の活動が必要なくなった時、彼ら専従者はどこへ行くのか?

こうした疑問に一つの解決策を探ろうとする動きが、今回視察中に見られた。
仙台市役所近くで開かれた緊急支援対策本部での会議と、それに続く東京での総会、この総会で設立される予定の『被災地NPO』支援全国プロジェクトは、直接被災者を支援する目的で設立される組織ではなく、『被災地で活動するNPO』を支援するための組織だという点に着目したい。それはそれで必要である。
予備会議に国交省の役人2人が出席していた理由も理解できた。彼らは予算措置が講じられる可能性に言及した。国の補助金によって活動する『新しい公共』の誕生である。予算の使途に任意のボランティアへの手当支給が含まれる。
何か違う。それはボランティアと言えるのか?
4/24に東京で開かれる大会『東日本大震災被災地NPO支援全国プロジェクト』設立総会の協力団体のトップに、国際ロータリー2760地区(愛知)が掲げられていた。
総会への招待と挨拶の依頼も受けた。だが、ロータリークラブとしての緊急支援はここまでだと判断して丁重にお断りした。

ロータリークラブのServiceの原点は見返りを求めない貢献である。”service above self”が基本である。ボランティアについても同様に考えるべきである。
現地に基地を設け、情報を発信しつつ活動するNPOの有効性については疑う余地はない。
だがロータリーにはロータリーらしい活動が他に有るだろうと考えた。

我々がヘリを飛ばし、トラックを購入し、支援物資の配送に腐心する間に、全国ガバナー会は真にロータリー活動に相応しい支援事業の構想を固めていた。
全国から7億8千万円を超える義援金が寄せられ、二つの柱となる事業が決定された。
一つが『災害遺児の教育環境支援プログラム』
もう一つが『ファイブ・フォー・ワンクラブ プログラム』である。
こうした的確な構想を遅滞なく生み出すロータリーの組織の経験と人材の素晴らしさに、改めて感激させられた。

ロータリアンで良かったと心から思っている。